世界的に巻き起こった#MeToo運動に代表される「セクハラ」やスポーツ界に代表される「パワハラ」への告発に関して、私なりに感じたことを書いてみようと思います。
今回はシンプルに解りやすくするため、ハラスメントの中でも「男女間におけるセクハラ(性差別や性暴力)」と「パワハラ(上下関係における暴力や職権乱用など)」についてのお話です。
セクハラについて
[性差別・性暴力の根本的な問題]
性差別・性暴力に関することでは何と言っても「被害者へのバッシング」が最たるもの。
仮に同性同士が同室に居たというだけで片方がボコボコに殴られたというシチュエーションではよほどの理由がない限り一方的に加害者が悪いという認識を持つのに対し、男女の場合の性差別・性暴力については被害者の落ち度とかいう訳のわからない理屈がまかり通っているということ。
そして「#MeToo告発の当事者への偏見」の数々。
時間がたってからの告発に「なぜ今になって言うんだ?!」と、どうでも良いことを責めて本質をうやむやにしようとする風潮があるのは何故か。
最近のマリエさんの告発についても同様にワイドショー等で取り上げられることもなく、当事者とされる本人ではなく事務所の声明として否定されて表向きには収束したように見える。
ここで善悪の判断をするつもりは全くないし、名前を出されたご本人たちにとって半分以上は十数年前の自分の身が直接脅かされることではない話など記憶にないというのが本当のところなんだろうと思うのだけれど、世間一般の反応があまりに冷ややかなことにえも言われぬ失望感を抱いた。
厳密には犯罪ではないのだから寄ってたかってバッシングすることは意図しないけれど、マリエさんが伝えたかったことがあるはずだと思う人たちがもっと声を上げてもいい気もする。そのような悪習がまかり通る業界なり世の中に変わってほしいと思っている人も沢山居るはずだと思いたい。
被害者側の気持ちなど何一つ考えようとしない無神経で的外れな意見にどれだけの被害者が二次被害三次被害を被ってきたことだろう。
[私が被害届を出した体験談]
午後8時過ぎ、駅から10分足らずの帰り道で前方から通り過ぎた車から降りてきた男に自宅の近くまで着いて来られ人気のない駐車場に引っ張り込まれそうになったことがある。咄嗟に大声を出しながら取り出した携帯電話で家族に「すぐ迎えに来て!」と叫んで電話してるフリをしたところ後ずさりしながら逃げていったため幸いにも大事に至らなかったのだが、それから1年位は車が来ると恐怖で民家の陰に隠れたり隠れる場所がないところでは身体が硬直してしまっていたことを思い出す。
たったそれだけと感じる人もいるかも知れない。その程度のたったそれだけの未遂事件でもこれだけのトラウマを背負うのだ。
被害届までいかなくても電車や路上での痴漢被害は多くの女性が経験しているのではないだろうか。そして恐怖や怒りや虚しさや諦めに心を苛まれる時間を過ごさなければならなかった被害者に落ち度などという明後日の方向からの理屈をこねくり回す輩がなんと多いことか。
パワハラについて
こちらはメディアでも大々的に取り上げられたスポーツ界に頻発した騒動が最たるものだ。
相撲・レスリング・アメフト・ボクシング・体操等々、それでも表面化しているのはほんの一握りなんだろうと誰でも察しはつく。ある程度の年代より上の人々にとっての学校スポーツの場での体罰は正当化され、ごく日常的に見られた光景でもある。
そしてそう教え込まれた人間が今度は指導者になり、またあらたな体罰を正当化するシステムを長い時間をかけて作り上げて来たのだ。
人に暴力をふるうことはもちろん違法だし、倫理的にも許されないことだと誰でもわかっているはずなのにもかかわらず特に教育の場で平然と正当化されてきた負の歴史を未だ引きずっている指導者には直視する責任があると思う。
子供の頃から指導者は絶対的な存在であると教え込まれた人間がその理不尽に気がつくまでどれ程の時間が必要だったか。特にスポーツ界のそれは長い時間をかけて沢山の人から人へ受け継がれてきた一種の「洗脳状態」「集団催眠」とも言えるのではなかったか。
セクハラ・パワハラの告発が増えてきた理由
ここ数年で多くの人々が気づき、洗脳が解かれ始めてきているんだと私は思う。
何かをきっかけにハッと我に返ったのだ。それは絶対的な存在からの日常的なたった一言かもしれないし、体罰と言い換えられてきた暴力だったかもしれない。これは「指導」でも「愛情」でもないと。
今、多くの人々が様々なシチュエーションにおいて「覚醒してきている」のだと強く感じる。
セクハラ・パワハラに限ってのことではなく、自分自身が自分のことを尊重する権利に目覚めたとも言える。人々が気づかなければ都合が良かったごく一部の人間たちにとっては生き辛い世の中になっていくだろう。
そして被害者を貶める社会や人間など決して許してはいけないと強く思うし、次世代を担う若きリーダーの皆さんには男女の枠をこえて新しい価値観を共有する社会を作っていただくことを期待せずにはいられません。