作品と作者は切り離して考えるべきか?

ライトに照らされた舞台と右手を挙げている後ろ姿の人々 社会の課題

二つの異なる意見

芸能人や著名人の不祥事が起きる度に繰り返される「本人と作品は切り離して考えるべきだ」という考えの人たちと「否応なしに不祥事を連想させてしまう作品には一切関わりたくない」という意見を持つ人たちによる論争があります。

こういうと身も蓋もないと思われるのは承知の上で、この二つの意見が歩み寄ることはまずあり得ないと思っています。そして作品を自分が主体となって創作する立場の人間とそこに参加する形で関わる立場の人間の場合も切り離して考えるべきだと思います。

今回は単純に該当する人物に対する愛着によってのみ前者の考え方になっている特定の熱狂的ないわゆるファン層や支持層と呼ばれる人たちについては除外した上で、作品とその作品を自分が主体となって創作(制作)する立場の人物についての話を中心にしたいと思います。

芸術とは

「芸術とは作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動。文学、音楽、造形美術、演劇舞踊、映画などの総称」

つまり作品の創作と鑑賞に「精神性」を求めるのが芸術ということであれば、作者本人が創作活動に精神性を求めているのか否かということが最も重要な判断材料になってくるのではないでしょうか。そして作品を鑑賞する立場の人たちが作品に対して精神性を求めているのか否か、また作者や鑑賞者が芸術を求めているのか否かということについてもこの論争の判断材料になるということだと思います。

赤黄青白水色などの絵具が出された器と一本の筆

作品に求めるもの

[作者サイド]

全身全霊で魂を削り新しい作品を生み出している多くの芸術家にとって作品は本人そのものであり、自分と切っても切り離せるものではないのです。テクニカルな面だけでなく自らの精神性をも込めて人々の魂に響く作品を創作することを追求しているのが芸術家だと思うのです。

一方で芸術※を目指している訳ではなく、テクニックや理論を駆使して斬新な作品を産み出す職人的な作者も存在していると思います。これはあくまでも私の推測ですが、職人的な作者にとって本人としても作品は作品として別物だと捉えられる人が多いのではないかと思います。

双方の創作活動や作品へのアプローチが異なるだけであり、どちらが優れているということでは決してありません。違いは一つ、作品に「精神性」を求めているか否かということなのではないでしょうか。

[鑑賞者サイド]

作品を鑑賞する人々の中においても作者と同じように二種類に分かれると思います。

先ず作品に作者の人格や精神性を感じて魅了されたり、作品に宿る作者本人の生き様のようなものに感銘を受ける人たちが沢山居るのも事実です。私もそのうちの一人なので、こちら側の意見の方が理解し易く共感します。作品の背景や作者の魅力もその作品の一部(それ以上)を占めることも少なくありません。

そしてもう一つ、作品は一作品として切り離して考えられるタイプの人たちです。厳密な線引きが出来る訳ではないので大まかな分類になりますが、観る立場の人が作品に背景を求める気持ちがなければその作品は作者と切り離しても何の違和感もないということなのでしょう。テクニカルな面や斬新性、美意識などが好みであるなら誰が創ったものであろうと優れた作品だという見解については私も否定しません。

「生み出す」と「産み出す」

人間や動物の生命に関して「産む」という言葉は出産のとき以外で使われることはありませんが、「生む」という言葉は出産から10年が経っても「私が生んだ」と表現することが出来ます。また「生む」は出産以外にも「利益を生む」「誤解を生む」など生命の誕生以外にも使われることが特徴的です。

※外部参照 「生む」と「産む」の違い

これらを踏まえて芸術作品に対する私なりの解釈をすると、作者が「作品を生み出す」=精神を込めて新しく作り出すということは完成してから何年経ってもその作品は継続的に作者そのものであると感じますし、一方の「作品を産み出す」=作品を母体(作者)が体外に出す瞬間のことであり完成後まで継続するような自らの精神性を込めて創り出している訳ではないのかなと感覚的に思います。

どこまでも平行線

前述のとおり、この論争に結論が出ることは永遠にないのです。作者サイド鑑賞者サイドいずれも頭から作品に求めているものが異なっているのですから、折り合いがつく訳がありません。

作品にテクニカルな部分だけでなく自らの魂や精神性(スピリチュアル)をも内包させる創作者にすれば、このような論争そのものが無意味に感じられるのではないかと推察出来ますし、その創作者の精神性を無意識にキャッチして作品に共鳴している鑑賞する側の人間からすれば、作品と作者を切り離して捉えることなど容易ではありません。

その逆もまた然りです。どちらの立場によるかで作品の捉え方が違ってきて当たり前ということでしょう。

結論

マイクを片手に歌う革ジャンを着た肩までの髪の毛の男性

ご承知のとおり結論は出ないというのが結論になりますので、最期は私の勝手な見解をお話したいと思います。

これまでお読みくださった皆さんはお分かりかと思いますが、作品と作者は切り離して考えられるものではないと私は感じます。目に映る美術品や映像、聴こえる音、文字が表す情景などすべてを受け取っているのは自分の感情や魂(スピリチュアル)以外のなにものでもありません。すべての芸術作品において作者の背景や精神を感じて鑑賞している訳ではもちろんありませんが、ちょっと好きになる程度ではなく理屈は説明できないけれどどうしようもなく心惹かれる(惹かれ続ける)作品についてはやはり創作者や演者の精神性や人格にも魅力を感じているということが事実としてあります。

スポーツと同じで気迫あふれる魂がこもった試合に人々が感動するように創作者の魂(スピリチュアル)が宿った精神性の高い作品に私は感動や共感を覚えます。何度観ても聴いても読んでも飽きないのです。

結局のところ、芸術に精神性を求める多くの芸術家と自分がその作品に惹かれる理由の中に否が応でも作者の人格や精神性も含まれるタイプの鑑賞者たちは私と同じ見解になるのだと思います。

タイトルとURLをコピーしました